みなさん終戦間際の昭和20年3月14日深夜から8月10日の間5回にわたって堺市街地が空襲を受けたことご存知ですか?
この空襲で歴史と伝統の町堺は焼け野原になってしまったのです。
なかでも7月10日の空襲は最も激しく堺市街地は壊滅的な被害を受けました。
7月10日午前1時30分ごろ116機の米軍B29 の編隊が大阪湾から堺に入り約1時間半にわたり油脂爆弾・焼夷弾約98,000発を投下しました。
その傷跡を和泉市の光明台南小学校の先生方がめぐられるというので一緒に参加させていただきました。
ガイドは堺市で長年教員をされていた、大阪歴史教育者協議会堺支部の小松清生(すがお)さんです。
堺駅を出発し右側にある堅川には南海電鉄の古い橋脚があります。
南海本線は今より東側を走っていたので、鉄橋の橋脚がこの位置にあったのです。
駅は、竪川の北側、大小路の正面に「堺駅」があり、南にあった阪堺線大浜支線と交差する所に「龍神駅」がありました。
堺大空襲当時は南海本線と交差していた阪堺電車龍神駅ガード下には、猛火に逃げ場を失った地元住民と電車の乗客がひしめき合っていました。
そこに炎と煙が襲いかかり300人以上の人が亡くなったそうです。
そこに堺大空襲から40年経った昭和60年に建てられた記念碑があります。
この記念碑には坂村真民氏の「念ずれば花ひらく」の詩文が刻まれています。
東側のまちから逃げてきた人や電車の乗客らが、熱さのあまり内川に飛び込みました。米軍の「油脂焼夷弾」は衣服についた油が燃えて水の中でも消えず、多くの人が亡くなったそうです。
そして神明神社へ・・・
神明神社
堺の歴史研究家中井正弘先生は、神明神社は江戸時代の「ウォーターフロント開発の鎮守」だと著書で語っています。
この神社は空襲で焼き尽くされ、本格的に復興されたのは、1998年です。
境内にはひび割れた狛犬や、玉垣には竜神楼など遊郭の名前や、戦時国債「帝国国債」寄進などが刻まれています。
そして・・・
堺駅南口からフェニックス通りを渡ったところで・・・1枚の写真を
今のフェニックス通りは道幅50mの大きな通りですが当時は細い普通の道だったそうです。
各地で空襲による火災で街が焼かれるのを恐れて被害を少なくするために「建物疎開」と言って通りの所にあった家屋をドバーっと大きく壊して火災をそこで食い止める作戦をとったのです。
しかし、実際はそんなことでは収まらず堺の町は壊滅的に焼き尽くされてしまいました。
その現場の写真です。
この場所で堺大空襲で亡くなった人たちの追悼式を行っている写真です。
そして
後ろを振り返って・・・もう一枚
池上医院さんの位置から考えると写真の高架は大浜まで通っていた阪堺電車だと思われます。
このすぐ西側に龍神駅があったのですね。
そして・・・
戦災無縁地蔵尊
7月10日の堺大空襲で、多くの市民が水を求めて内川に飛び込みました。
当時大浜公園まで続いていた阪堺線支線のガード下に逃げこむなどして亡くなりました。
近くの竜神遊郭の女性や南海電車の乗客も含まれていたと言われています。
空襲の死者が最も多かったこの場所にりんご箱が置かれ、戦災者の供養を始めたと言われています。
そして1954年に地蔵尊が祀られるようになりました。
英彰小学校階段室
昭和9年の室戸台風で多くの校舎が倒壊したため、堺市は風水害と空襲にそなえて鉄筋校舎の建設を考えていました。
しかし、予算難などの理由で、階段部分だけを鉄筋にし、防火シャッターで延焼を防ぐことにしたのです。
それが堺大空襲では木造校舎は全て焼けてしまい、いくつもの学校で階段部分だけが焼けずに残ったのです。
今でも英彰小学校に残る階段室ですが、堺市は戦前の建築である証拠が無いとして、「戦災遺跡」と認めず、2004年校舎の再築の際に取り壊すと決めていました。
しかし、「堺大空襲をさぐる」著者網信二さんを中心に卒業生有志・市民のとりくみの結果、階段部分の保存が実現しました。
現在この階段室は平和教育の場としての役割を果たしています。
子どもたちが描いたメッセージボードや平和を願う寄せ書き、そして堺大空襲の時の写真や絵画、平和を祈る千羽鶴などが展示されています。
さかい利晶の杜
さかい利晶の杜の無料ゾーンには床面に大きな昔の堺市街地の地図があります。
それと、戦前の宿院を中心とした街並みの縮尺模型があります。
さかい利晶の杜には堺観光ボランティアガイドさんが常駐していますのでぜひ堺の昔話を教えてもらってください。
おもしろい話が満載ですよ。
この模型で私が興味深いなあと思ったポイントは
- 宿院でチンチン電車が大浜に向かって分岐している。
- 現在のフェニックス通りをまたいで宿院頓宮の鳥居が海に向かって建っている。
- 建物疎開で壊され広い通りになっている。(現フェニックス通り)
- 現在地であるさかい利晶の杜の所は堺市民病だった。(その前は英彰小学校だった)
ぜひ利晶の杜に行った時はじっくり地図を眺めて昔の堺に思いをはせてみてください。
住吉頓宮
戦前は宿院の交差点の東側に宿院頓宮があり海に向かって鳥居が建っていました。
それが建物疎開で削られ、戦後の復興計画によって東西を結ぶ幹線道路をつけるために宿院頓宮は場所を南側に譲ったのです。
その名残として今でも宿院交差点東側のフェニックス通りの分離帯に大きな灯篭が建っているのです。
ギャラリーいろはにの防空壕
山之口商店街にある「ギャラリーいろはに」さんの床には床下収納庫のようなふたがあります。
なんとそれは実際に使っていた防空壕なのです。
1944年当時は洋服店で軍の命令により地下に防空壕をつくり壁面も頑丈なコンクリートで固めました。
その後の空襲でお店は全部焼けてしまいましたが、この防空壕だけはそのまま残りました。
現在のお店はオシャレなギャラリーになっていますがその床には当時のまま防空壕が残っています。
今回歩いたマップ
資料・写真提供:金岡公園ピースメモリークラブ
(戦災死者追悼式の写真は堺市発行「平和 いのち」より)
藤岡