
ウエダリクオは風の芸術家と呼ばれています。
そう呼ばれるようになった原点となる詩を二つ載せます。
最初は、ウエダリクオが青年時代に海外を放浪した経験とその後、風と出会ったことを書いた詩です。
風
僕は、チベットの山奥にあるであろう
数億年の時を映し出す湖面になろうとした。
出来るだけ風の少ない日をえらんで。
空が湖底の翠にとけこみ、雲が流れ、時おり渡り鳥がよぎる。
風が吹き、全てを湖岸に運んでいく。
そしてなにもなかったかのように再び空が広がる。
すべてはすでに用意されていた。
僕は23歳だった。
あてもなく旅し、目的のないことに酔いしれる。
ノルウェーには雪があり、
モロッコには砂漠があり、
アフガニスタンには山があり、インドには河が流れていた。
無一文でドイツをさまよっていた時、
スコットランドの青年ピーターと出会った。
彼も一文無しだった。
誕生日の日に詩をくれた。
そしてデンマークで風と出会った。
ウエダリクオ
旅の道連れとなったピーター(Petar Lyth)の詩

ウエダリクオは大学卒業後の22歳から、3年間ヒッチハイクをしながら、
ヨーロッパ、北アフリカ、中東などを放浪しました。 帰国後、体験や考えをアートという形で表現しはじめました。 27歳でデンマークのワークショップ
(公開制作と発表)に参加した時から、風を絵にするwind drawingを始めまし
た。
材料は、小さな木の枝や葉とペン、紙片だけのシンプルなものから、大き
な木や大掛かりな装置を使ったものまで様々です。
「待つ」時間と陽の光、温度や湿度、天気や季節の影響を受けながら、風が絵を
描きます。 風の描画は私たちに自然からのメッセージを届けます。 詩的であり、哲学的であり、時に宗教的です。 自己主張を極力抑えた 控えめな芸術は日本人にはなじみ深い心地よさに満ちています。今回は紙片の代わりにルーローの三角形の形をした銅板を設置し、ペンの代わりに針を付けて、風が吹くと線刻がされるようになっています。

いわば風の銅版画(エッチング)です。エッチングに刷り上がった作品が14点とオブジェが4点、計18点の作品が展示されています。


全ては繋がっていて、絶えず変化し続けていることを、ウエダリクオは風を見続けるなかで気づきました。そしてそのことは般若心経にも旧約聖書にも書かれており、ピーターの詩にもウィリアム・ブレイクの詩にも書かれており、物理学の最先端の理論にも書かれていました。「すべては用意されていた」のです。ただ「私たちは考えることが多すぎて、自然を見ることを忘れてしまい、気づくことができないでいる(ピーターの詩にあったように)」。
シンプルなことの中に宇宙に繋がる大切な真理が存在することを、そして日常を大切にしなければいけないことを視覚化しようと試みたのがウエダリクオのアートです。


ギャラリーいろはに:北野庸子